華氏123度
朝からの雨は夜になっても止まず、冷たい雨音が窓をぽつぽつ叩く。僕は仕事から戻りエアコンをいれてソファにどすんと腰をかけ、ぐったりぼーっと天井を眺めていた。薄暗い部屋には雨音だけが虚しく響く。
どのくらい時間が経っただろう。部屋のチャイムが鳴ったのに気付いた。疲れ切った身体を起こし、扉をかけると、そこには確かに滝本ひふみが居た。「寒いね…」消えそうな声で彼女は言った。「いらっしゃい。」震える彼女を僕は慌てて部屋へ入れ、ソファへ座るよう言い、暖かいココアを出した。
「ありがとう。」ゆっくりと机にカップを置きながら彼女は言った。カップを持っている手は白くて小さい。これが女性の手なのかとしみじみ思った。
僕は彼女の隣りに座った。僕達は暫く見つめ合う。彼女の頰が少し赤くなるのがわかった。互いの顔がどんどん近くなる。溢れる気持ちを言葉にするのが難しい。ずっとずっとひふみに伝えたかった事はいっぱいあるはずなのに、やっと口から出せたのは「…好きだよ、ひふみん…。」そして僕は彼女とキスをした。
ベッドに潜り優しくひふみを抱いた。柔らかいしスベスベだ……これがひふみんの肌か。僕はもう一度好きだよ、と言いキスをした。
「ひふみん…うぅ…ひふみん!」僕は彼女に抱きつき子供のように叫んだ。「明日会社行きたくないよお…ずっとずっとひふみんをギュってしてたいよお…会社ヤダヤダ…もう行きたくないよぉ…だって職場にまだ馴染めないんだもん…意地悪してくる人いっぱいいるんだもん…」ひふみは何も言わなかったが、天使のような微笑みで優しく僕を包み込んでくれているのがわかった。するりと僕の腕から溢れそうな華奢な身体を強く抱いて目を閉じた。翌朝になってもひふみが離れないように。
いつも通り6時20分のアラームが鳴り、僕は目を覚ました。隣りでひふみが寝ていてくれているのに心底安心した。これまでの人生で味わったことのない安心感と幸福感。厭な会社も、ひふみのために頑張って働こうとさえ思った。僕は眠たい目をこすりながら軽くひふみを抱きしめ、おはようのキスをした。
出勤の支度を終え、携帯と定期入れをカバンにしまいながら寝室へ戻った。ひふみはまだベッドで寝ていた。行ってきます、と伝え、行ってきますのキスをした。これが新婚生活か…。僕は世界一幸せ者かもしれない。嬉しくてギュっと彼女を抱いた。
寝室のドアを閉める前にもう一度行ってきます、と言った。「行ってらっしゃい」ひふみは微笑みながら言った。やっぱり僕は世界一幸せ者だ。ずっとひふみと居たかった僕は後ろ髪を引かれる思いで会社へと向かった。
昨夜の雨は止んでいた。駅までの国道沿いの道は、車が通り過ぎるたび冷たい風が肌に刺さる。僕は冷え切った手をはーっと吐く息で温め、ポケットへ突っ込んだ。早く帰ってひふみんといっぱいお話ししたいな。冬の朝は空気が澄んでいて、コツコツと足音が響く。今朝は昨日までより足音が高く軽く感じた。